夜叉ヶ池伝説

八飯の村人達は、消失した観音堂をもとよりも立派に復興させた。
その信心力は巨大な観音堂の建築を見れば、うなずける。
村内の辻々には数多くのお堂が建てられていて、地蔵様が風雪をしのいでおられる。そして、この区をシンボライズするものは、澤崎約老家である。 村人にも今庄の町でも約老で通っている。あるいは、八飯のお医者と言い慣らされている。

約老家を語る場合は八飯区よりさらに八キロ程山奥、 夜叉ヶ岳山頂の夜叉ヶ池の龍神に話を及ばさなければならぬ。そして夜叉ヶ池の伝説は、大略して三つの系統が一つに結ばれて行くのを発見する。

その一、旧今立郡中河村上河端、中村家(源氏の長者と呼ばれた)の愛娘が夜叉ヶ池の龍神に嫁いだ話、その二、旧南條郡神山村池の上弥平の娘が龍神に嫁いだ話、その三、美濃国安八郡安八大輔安次の娘が嫁いだ話。

以上三つの伝説はいづれも、春より夏の半ばまで雨が降らず、田も畑も赤く色を変え、河水も井戸水も尽き果て、衆民は雨を呼び水と叫んで悲惨な状況となった時、村に現れた龍神の化身した若衆姿の武士が「雨を降らせれば娘をくれるか」と念を押し、約束を違えず間も無く恵みの雨が降り続き、村々は蘇った。
ふたたび現れた龍神が約束の履行を迫ったので致し方なく、夜叉ヶ池へ、娘は泣く泣く嫁入りへと旅立った。不思議な事は、以上の三人の長者は、いづれも嫁ぎ行く娘に、針の束を入れた小袋を持参させた話は同じ。
また、この針の金気に会って龍神(夜叉丸とも言われる)は次第に身体が弱ってゆく。遂に娘を離縁して山麓の八飯村に住まわせる。
やがて生まれた夜叉丸の子には、夜叉丸から授かった接骨術をもって生計を立てさせる。この時代から約老を名乗って、名医として日本国内に伝わってゆく。

三つの伝説は夜叉ヶ岳の麓、八飯の約老家に至って遂に一つの伝説に結ばれるのである。先代約老家までは代々約老を襲名、受け継がれた整骨技術には神秘的なものがあり、「八飯へ行けば治る」というので、 遠近を問わず受信者が訪れた。

特に、家伝の整骨薬、万能膏を求める人で門前市をなす有様であった。太平洋戦争が激しくなって、材料が欠乏して製造中止するまで薬を欲しいという書面が北は北海道、南は九州、朝鮮からも届いたというから盛名ぶりが、うかがえる。先々代までは彦根藩の御殿医をもつとめていた。彦根通いに下僕にかつがせた薬を入れる挟み函ヽは今も同家に残っている。

澤崎家では夜叉ヶ池畔に龍神の碑を建て毎年一回、八月にはこの池に登って、夜叉ヶ池の神々よ、安らかなれと供養を営んでいると言われている。夜叉ヶ池に登るには澤崎家の許可が必要だったそうな。ともかく、古くから夜叉ヶ池は越前第一の雨乞いの霊地といわれている。

当店「縁」は、この澤崎約老家を福井県今庄町より多くの関係者のご縁を頂きこの地に移築したものである。

当店は福井県今庄町より約120年前の旧家を移築しました。
その旧家とは幕末の大老・井伊直弼の彦根藩御殿医をしていた澤崎約老邸で、同家は夜叉ヶ池の伝説に深い因縁のある由緒ある家柄です。
店舗は本来の間取りを活かして移築され、柱、梁、欄間などは総ケヤキ造りです。入り口の門は、井伊大老が馬にのって通ったという馬上門を約250年前の当時のまま全く手を加えずに移築しています。